無意味な言葉を書きがちなことについての感想
コーヒーを飲みたいなと思います。コーヒー飲んでどうなるか?はあんまり知らんけど気にはなります。とかいう人がいる…。
このことについてなにを思うのか、よく知らない。わたしが、どう思うのか。あ、空には星がある。星たちは明るかったり暗かったりする。
そういうことをぶつぶつ喋ること。あんまり気持ちいいことではない。しかし、喋る。喋るのは快楽かもしれない。しかし、人と喋るのが好きな訳ではない、と思う。
けっこう支離滅裂な文章になってしまう。文章とは、なんなのだろうか?詩とかは、やや書きやすいが、しかし人に対してどうやって伝えるか、という意識が希薄になる。なにかを伝えることは、コミュニケーションの意味だと思うが、それよりも、意味よりも、言葉のざらついた感じ、たとえば海老という言葉の形の面白さ、何かが気になる。
なにかが気になるでは、抽象的。だけれど、あえていえば、「ごはん」みたいなものがあったとき、ごはんという意味(言葉の意味っていうものも、難しいかしい、いいがたいものだけど、まああのおいしそうな白いもの、のことだとすると)だけじゃなく、「ごはん」という響きは少しこもっていてなんだか悩んでいるようにも思え、形にしてもひらがなだから軟らかそうだけれど「ご」の形はちょっと太っててスタイリッシュじゃないなみたいなことというか。そういうようなことが気になる。
文章を書くとき、だから意味じゃなく、言葉がその場の石ころを並べたみたいな、なにかを指し示す記号というよりまず形や響きを味合うもの、みたいに、多分本能的に思っている。散文は、意味をちゃんと伝えるものだから、そっちの形や響きに注目することはなかなか難しい。というか、それだけに固執して語ることは難しい。言葉は、それ自体を提示するというよりも「それがなにを表しているか?」という記号の次元で考えないといけないときがある、のが難しい。コミュニケートはそういう次元だと思うけれど、それがなんだか難しい。どうしても、意味を破壊したり無視したくなる。
だから、この文章の最初でもよくわかんない、詩的かどうかはともかく言葉がわたしの伝えたいことを意味するというふうには使うことができず、むしろいうなら言葉そのものを見ろ!みたいなことになっている。もちろん、言葉の次元は、意味のものと意味になりきれないものの二つがあって(もしかしたら他にも三つ目、四つ目があるかもしれないけれど僕にはわからない)、どっちかが強くなったり、うまく釣り合ったりしてるんだろうけど、自分の体質の場合は無意味な言葉そのものの次元が強く出てしまうのかなと思う。だから、自分も詩を書くけれど、それがいい詩ではないが、詩のほうが好き勝手書ける感じはあるなと思う。
だから、言葉を語ったり文章を語るときに困るのは、わたしの感覚としては言葉が無意味に走りがちになる、ということで、多分独りで延々喋ったり書きたいのだと思う。でも、それだけだといけないという感覚もあって、だからこういう読んでる人がほとんどいないけれど誰かが読むかもしれないという可能性がある、つまり他人を想定するという仕方で、書く、つまり意味を伝えるという形での文章、コミュニケートのための文章をする、ということもしているのだと思う。
まあそんなことしなくても、もっと詩的に、つまり意味をあんまり重視しないで書く、という仕方で突っ張ればいいかもしれない。しかし、詩といっても万能ではなく、文章のスタイルが散文と詩と大きく二種類あるのは、どちらも片方で伝えきれないものがあるということであり、他人に伝えるというのもあるがもっと深いところで、他人に伝えるという体でなくては書けない言えないことがわたしのなかにあるということであり、それはけっこうたくさんあるのだと思う。
自己内省的な文章になってしまったが、わたしの身体的な特性としては言葉が無意味なほうへ行きがちだが、それではいえないこと、多分こうした日常的な思考や体験を書きたい、というのがわたしの思いだなというのがわたしの結論めいたことになる。でもやっぱり、散文的に書くのはちょっと面倒くさいとも思う。多分、散文では捉えれないもの、多分それはここで言語化するのは難しいが、言語化できない快楽や苦痛の衝撃をなんとかいいたい、ということにあるのだと思う。たしかにそういう経験はあるが、それはなんともいいがたいのでいえなく、抽象的にいえば、散文という意味の領域に意味化できないわたしの経験を組み込めないから、散文は苦手なのだと思う。端的にいって、その衝撃は、まさに語り難い。では説明にならないので少しでもいうと、意味化とは多分他人にも理解可能なものとしてある対象を言葉にして伝えることだろうと思うけれどとても自分が受けてきた衝撃とは私的で(なぜ私的なのかはわからないが)他人に理解できないという確信をわたしがしているからだと、今のところは整理したい。
長々となって整理もされていないが、多分その確信のせいであり、他人に少しづつ語っていけばそれの確信も薄れるのかもしれない。そういう個人的なことを他人にも(わたしにしかわからないという感覚や出来事は誰しもあると思うが)うまく伝える、あるいは伝わったという錯覚かもしれない感覚を他人に伝えれるという能力は、芸術家の人なんかは持っているのかもしれない。
しかし、痛みという言葉はみな了解でき、意味もわかるが、その痛み自体はわたしにしかわからない。他人に語っても、その意味はわかるかもしれないが、みながもつ固有のあまりにも私的で他人には伝わらないという出来事や体験は、伝わらないものかもしれない。
もう終わりを見失っているが、これくらいしか今日は考えをすすめれないので、ここで終わりにする。読んでくれた方がいれば、ありがとうございます。まあ、最初の無意味な言葉も、無意味な言葉の例ぐらいになっていれば嬉しい。