詩なんかこっちへ来るな!

 昨日から眠い。眠いのでコーヒーナンかを飲みたいたが、飲まない。サイゼリヤいったけど飲まない。

 サイゼリヤは大盛りのメニューがなかった。のってなかった。見てないだけかも。でも友達もいってた。違ってたら二人とも馬鹿だ。わたしもかれも。

 それでいまシーシャ吸ってる。詩もかいた。適当にやった。できはいい。なんかノートとかで反応があればいいが。感想が聞きたい。けどネットだと難しい。やっぱり詩の会にでるか?それは先輩がやってる。楽しそう。恥ずかしいけど。自分の詩を朗読するのははずかしい。でも朗読自体は楽しい。他人のをうまくいうのは。うまくないが、でも節をつけたりアクセントをつけるのが楽しい。小説の朗読よりも、自由度がある、と思う。でも小説の朗読は、それはそれで聞いてみたい。もっとだらっとたんたんとやるのか?なにか、朗読会、村上春樹はそういうのをしたことがあるらしいが、あったら聞いてみたい。

 演劇も最近いってない、いってみたくはある。2時間くらいじっと前のものをみる。自由がないのは苦しい。でもそこを我慢するあとの楽しみはある。マゾというか、解放というか。それで演劇も面白ければいいが。

 ここに敵がいる。誰だろう。わたしはイメージする。まあいる。敵はわたしもいる。戦争はつねにありうる。国家はそれを制御する。私闘は罰せられる。不可能なくらいに。ラッパーは喧嘩したことを自慢する。それは、倫理的には良くない。けれど、国家からの解放という点では、とても楽しそう。もちろんいたい。ギブというまでやる。大阪の友達の高校には、殴り合って物事を決めるガンツみたいな世界があるらしい。権力もそこから生まれる。なんかすごいところだ。一番最初の自然状態から、なんか秩序ができるのだろう。わたしだって生成するのに、世界はもう生成されている。それがわたしにはたまらなく不愉快で安心できる。わたしはもっと人を殴ったり殴られればよかった。面と向かって人を殴ったのは一回だけだ。詩も殴るようなものだといい。わたしはコーヒーを飲んだ。それは喫茶店でだ。やっぱり喫茶店だとコーヒーを飲む。

 わたしは家に帰ったらデリダを読みたい。レヴィナスでもいい。レヴィナスたちは努力してる。でもドゥルーズはしてなさそう。ドランクして先のプラトーを書いたらしい。まったくファンキーだ。わたしもそうしたい。あんまり努力せず、というか徹底的にせずやりてえ。

 ああ論文の面倒臭さ!しかし、まあ、よい。わたしはコーヒーなどを飲みたい。でも実際はあんまり。わたしは死ぬことをした!いつか?しかし、死ぬことは自殺というほどではなく、なんかある。たとえば、死を実感する哲学の上昇運動によって。まったく不愉快だ!しんみりしたくないな。パンを食べたい。パンを食べるのは、生きてく上で欠かせない。そうするべき。そこに戻る、つーか食ってる。限界でもなく、飢えを適度に癒やすため。わたしは限界に行こうとしすぎ!しかしまあ、眠いんだいまは。しかし今ってどこだろう?コーヒーを喫茶店で飲む時?こうして書いてるとき?人称がいつもわかんなくなる。いや、時制か