飢え、欲望、つまり由来はレヴィナス

 飯は食いてえ!でもダイエット中。コカ・コーラやラーメンは敵だ。食ってはならぬ。しかし、敵は強大で、はっきりいって負けそうになる。マントラマントラー。食うな、食うな、という。

 タバコを吸うと、ニコチンのせいで食いたくなる、と聞いた。ネットの記事。最悪だ。わたしは、シーシャ、それ好き。吸う、腹が減る。食事のかわりにシーシャを!だが、シーシャが吸いたくなると、飯も食いたくなる。ペットボトルの水を飲みまくるしかない。ミネラルウォーターや。そういえば、阪神は最近優勝した。なんて、感動的なことか!いや、そうでもない。

 わたしはプロペラを食べたくなる。子供のときも。今も。別に材質は…。だが、食いたくなる。食いたくなる。少しづつ肩の力を抜いて…。まあ、書いていくしかないが。なにか、やはり、そこに慣れるまで…。焦ってはならない。少しづつ書こう。金子光晴読みたいし、つまり買う。そろそろ課題図書も読まなくては。レヴィナスはやっぱりよくわからん。レヴィナスは、超越へ、つまり意識できないものへ、向かう性向がある、と語るときまではわかる。

 しかし、そこで、じゃあ他者についてどう思うか?考えてみよう!とかいわれると、ついてけない。そいつの管巻いてんの聞いてもな。むしろ、そういう超越は、虚妄に近いも思うし、そんなこと思考できるのかしら?と思う。そういう、超越を求める生理学的な衝動は人間のあるのだろうが、そこを語るのはできなくないか?と思ってしまう。やっぱりレヴィナスはよくわからない。少しづつ、少しづつ読んでいこう。難しいことだけれど。書くことも、少しづつ。

 飯は、飢えであり、なにかを食えば満たされる。しかし、欲望には、満たされず、むしろその満たされなさに狂しく狂うときがある、というのがレヴィナスのいいところだ。レヴィナスの説で。だから、いいことだと思う。たしかに、それはある。恋愛的な。Adoとか聞いても、糞だと思うが、しかし、なにか、聞きたくなる。多分糞なのは、わたしが、AdOの向こうのなにかを見てて、それに比して糞だからだ。しかし、そんなものと比べられて糞じゃないものなんてない。イデアなのだから。そこへ向かおうとする。Adoの個々の作品は問題じゃない。この衝動を、恋愛的な衝動を、どう扱うか?というのが、問題だ。