エセ説教

 何を書くか、よくわからない。

 しかしまあ書かねばならぬ。というか最近思ってるのは個人的なことを書きにくいことだ。

 なんか、話を人前でしなくてはならない。まあ論理哲学的なこともいう。しかし、それだけでは人に伝わらない、というと嘘ではある。まあ論理思考が好きな人には伝わる。「アルチュセールは理論を否定したんですよ。哲学は理論でないといったのですよ」とか。まあこんなこととは分野が違うが。まあ哲学とか理論といって蕁麻疹が出ないタイプの人はいい。

 それなら大丈夫だ。しかし、そんな人ばかりじゃない。感覚的感性的なことがわかりやすい人もいる。経験や比喩を交えなくてはならない。というか、比喩や経験こそメインやという人もおる。わたしは明らかに、「感性的」なんて言葉をいう時点であれだ、明らかに感性ではない。

 しっかし、物語や比喩というのは、なかなか構成がいる。構成…。そんなものができるのか?というのがある。

 こうやって現在形のことを語れるといい。ブログはけっこう自由だから。つまり起承転結とかが苦手なのだ。起承転結とは、明らかに構成であり構築だ。わたしにはそれができないのだ。つまり!あれだ。没入というやつ。話に没入する。引いてみるのではなく。引いてみるから、感覚的なものをなんか起承転結とかの理論で語っちまう…みたいな混乱した思考。

 疲れるなあ、こんなことやるの。たとえば

 わたしは昨日猫を見たんです。猫はかわいかったですわ。にゃーと泣きますよね。それがもうかわいい。にゃーというだけでかわいいんです。赤ん坊に似てますね。赤ん坊も泣きますよ。わんわんじゃないですよ。おぎゃーという感じですね。でも犬もね、わんわんじゃ本当はないですよ。言葉にならない個性的な声をしてますよね。赤ん坊もそうです。泣き声それぞれ違いますよね。泣きます、泣きます、おぎゃー。こうやると、一つに聞こえる。おぎゃーというてるんやったらおぎゃー。でも子供というのはまだ言葉の世界に入ってません。

 言葉というのは記号ですよね。記号ですから、抽象化してるわけです。文字で考えるとわかりやすいです。え、ってありますよね。かきますよね。でもおんなじえをかけるわけちゃいます。書道なんかその典型ですよね。あんなねえ、書き順いうか、爆発したみたいなのは、すごいですわ。

 だから、そういういろんな個性を超えたところに文字はあるわけです。でもですね、個性を超えたものを見るとね、わたしたちは個性を見捨てることがある。

 わたしたちは赤ん坊の声を聞く。それは違うと思う。おんなじおぎゃーでも、それぞれその子の違いがわかる。ノイズがあるんですね。文字にも言葉にもならないノイズがある。でも言葉はそれをかき消すところであるわけです。

 わたしたちは、意味が通る言葉を使って思いを伝えますよね。意味が伝わるにはまず、声とか文字がその言葉やとわからないといけない。でも声なんて、わたしたちの思いを、たんになにかをいうことで伝わるんじゃないでしょ。声色とか高さとかテンポで伝わるものもあるでしょ。悲しいといったって伝わらないときもある。でも楽しいよといったときでも悲しいという思いが伝わる言葉がある。

 人間はどうしても言葉にとらわれている。言葉にとらわれている。だから、言葉を信じたくなる。言葉でいわれてる意味にとらわれる。だから、言葉じゃなくてね、本当はその声を、文字を、そして心を見ないといけない。だから嘘という言葉があるんでしょ。いうことと思いがいつもずれるから。嘘は悪いという。でもわたしたち、大事なことをいうの、怖いですよね。嘘は悪い。でも嘘をついてしまうときが、どうしてもつかなきゃ死んじゃう時が、心が死んじゃうときがある。

 それを聞くのが祈りです。神仏になにかいう。アーメンでも念仏でもいいです。しかし、その言葉を神仏は見てるんじゃない。助けてくださいという言葉の意味を見てるんじゃない。助けてくださいという言葉にもならない思いを、一番の助けてください、を聞いている。だから祈る言葉には、普通の意味での意味はないんです。それは、意味を聞いてくださいといってるんじゃない。赤ちゃんの呼び声なんです。わたしたちは、祈るとき赤ちゃんになってるんです。だからそれは泣き声なんです。言葉の手前なんです。言葉だけじゃ救われないんです。その言葉のならないところを聞くから、わたしたちは生きていけるんじゃないですか。

 みたいなエセ説法をしなくてはならない。大変に不愉快である。やめたい。しかし、これをもっとマイルドにして哲学を語らなくてはならないのだということに、本当に苦しみを感じているよ

飢え、欲望、つまり由来はレヴィナス

 飯は食いてえ!でもダイエット中。コカ・コーラやラーメンは敵だ。食ってはならぬ。しかし、敵は強大で、はっきりいって負けそうになる。マントラマントラー。食うな、食うな、という。

 タバコを吸うと、ニコチンのせいで食いたくなる、と聞いた。ネットの記事。最悪だ。わたしは、シーシャ、それ好き。吸う、腹が減る。食事のかわりにシーシャを!だが、シーシャが吸いたくなると、飯も食いたくなる。ペットボトルの水を飲みまくるしかない。ミネラルウォーターや。そういえば、阪神は最近優勝した。なんて、感動的なことか!いや、そうでもない。

 わたしはプロペラを食べたくなる。子供のときも。今も。別に材質は…。だが、食いたくなる。食いたくなる。少しづつ肩の力を抜いて…。まあ、書いていくしかないが。なにか、やはり、そこに慣れるまで…。焦ってはならない。少しづつ書こう。金子光晴読みたいし、つまり買う。そろそろ課題図書も読まなくては。レヴィナスはやっぱりよくわからん。レヴィナスは、超越へ、つまり意識できないものへ、向かう性向がある、と語るときまではわかる。

 しかし、そこで、じゃあ他者についてどう思うか?考えてみよう!とかいわれると、ついてけない。そいつの管巻いてんの聞いてもな。むしろ、そういう超越は、虚妄に近いも思うし、そんなこと思考できるのかしら?と思う。そういう、超越を求める生理学的な衝動は人間のあるのだろうが、そこを語るのはできなくないか?と思ってしまう。やっぱりレヴィナスはよくわからない。少しづつ、少しづつ読んでいこう。難しいことだけれど。書くことも、少しづつ。

 飯は、飢えであり、なにかを食えば満たされる。しかし、欲望には、満たされず、むしろその満たされなさに狂しく狂うときがある、というのがレヴィナスのいいところだ。レヴィナスの説で。だから、いいことだと思う。たしかに、それはある。恋愛的な。Adoとか聞いても、糞だと思うが、しかし、なにか、聞きたくなる。多分糞なのは、わたしが、AdOの向こうのなにかを見てて、それに比して糞だからだ。しかし、そんなものと比べられて糞じゃないものなんてない。イデアなのだから。そこへ向かおうとする。Adoの個々の作品は問題じゃない。この衝動を、恋愛的な衝動を、どう扱うか?というのが、問題だ。

コーヒーと怖い映画

 コーヒーなどを飲みたい。

 コーヒーで好きなのはアメリカンコーヒー。焦げてる感じがしてよい。

 まあ、僕はコーヒーについて詳しくない。コーヒーはたまに飲む。喫茶店に行くと。しかし、好きな訳ではないんだけど。

 ぐるるぐるると音がする。そういうとき。映画の効果音で化け物が出てくる。すごくそういうときドキドキする。コーヒーをそのとき、飲んでるときもある。コーヒーを飲むと、不安がなくなる。でも、慌てて驚く。零れそうになる。飲んでると、怖くて、飲めなくなる。ぬるいコーヒーの完成!

無人島プラトンなど

 とくに、書くことがない、ということからはじめたくない。しかし、書くことはない、その書きたいという欲だけはある。そんなに、うまく書けないけれど。

 書くことについて、エクリチュールとか。そういうことについて、読んだりした。読んだりしていた。

 もう書く気があんまり起きない。詩でも書きたい。まだ、フォームというか、エクスキューズなしで書くことがない。というか出てこない。なにか、書きたいことはあるのだろうけれど。

 書きたいのに、書くことがない。したいのに、したいプレーはない。そういう変なことはおきる。内容ではなく、ただしたい、と。だったら、とりあえず書けばいい。書くことが、したいのだから。内容など関係ない。人に向けて、書く必要もとくにない。というか、エッセイみたいな日常のことを書かなきゃという意識がどこかある。そういうものから、解放されたい。

 昨日はご飯をあんまり食べなかった。ダイエットをしはじめた。なぜ、ダイエットなんかをするのか。というか、書きたいことはなんなのだ?あんまり、そこの動機がない。普通の日常を書きたいのか。それとも人気取りをしたいのか。レスポンスを求めているのか。けっこう、後者に傾いている。

 いやなことだ。誰にも読まれなくてもよいから、書きたい!ということがない。いや、人気を取る?まあそういう志向はある。しかし、そんなことをしたいわけじゃない。フッサールでも読むか。志向性なのだから。

 もっと適当に。昨日はパスタを食べるのを我慢した。それがなんだっていうんだ。うるさい、パスタを食べたってことなんだよ。ああ、これはちょっとは書けている。いいことだ。そもそもパスタは太る。炭水化物だ、糖質なんか、やばい。無人島の帰りに食ったパスタはうまい。無人島だとまじで食うものがない。

 無人島には二泊三日でいった。しかし、食事なんかほとんどとれない。マクドナルドのバーガーでもかいたかった。話しても話しても時間はすぎない。本当にファックだ。なんていやさだ。苦しかった。つった魚はくそまずいし。生臭い。いったことを後悔。でもいい思い出にはなるから、ふざけてる。また行きてえじゃねえか、ちくしょう!

 なんて馬鹿なことをいっても始まんねえ。おれは哲学をしてる。フィロソフィーなんてできやしない。普通、そんなのは大哲学者のやること。きちんと問を立てる。しかし答えをだす。しかも、それは不可能だ。そんなことはできねえ。エジプトに行きてえ。プラトンみたいに。

 プラトンはなんか、よわそう。理想が高すぎる。高杉晋作について。ただの連想だ。なにを書けばいいかわかんねえ。プラトン、今度読んでみようか。とりあえず今日はここまで。しかし、悲しくないか。いや、わかんない。こんなことかいてなんになるか。涙がでてくる、いや出てこない。

詩なんかこっちへ来るな!

 昨日から眠い。眠いのでコーヒーナンかを飲みたいたが、飲まない。サイゼリヤいったけど飲まない。

 サイゼリヤは大盛りのメニューがなかった。のってなかった。見てないだけかも。でも友達もいってた。違ってたら二人とも馬鹿だ。わたしもかれも。

 それでいまシーシャ吸ってる。詩もかいた。適当にやった。できはいい。なんかノートとかで反応があればいいが。感想が聞きたい。けどネットだと難しい。やっぱり詩の会にでるか?それは先輩がやってる。楽しそう。恥ずかしいけど。自分の詩を朗読するのははずかしい。でも朗読自体は楽しい。他人のをうまくいうのは。うまくないが、でも節をつけたりアクセントをつけるのが楽しい。小説の朗読よりも、自由度がある、と思う。でも小説の朗読は、それはそれで聞いてみたい。もっとだらっとたんたんとやるのか?なにか、朗読会、村上春樹はそういうのをしたことがあるらしいが、あったら聞いてみたい。

 演劇も最近いってない、いってみたくはある。2時間くらいじっと前のものをみる。自由がないのは苦しい。でもそこを我慢するあとの楽しみはある。マゾというか、解放というか。それで演劇も面白ければいいが。

 ここに敵がいる。誰だろう。わたしはイメージする。まあいる。敵はわたしもいる。戦争はつねにありうる。国家はそれを制御する。私闘は罰せられる。不可能なくらいに。ラッパーは喧嘩したことを自慢する。それは、倫理的には良くない。けれど、国家からの解放という点では、とても楽しそう。もちろんいたい。ギブというまでやる。大阪の友達の高校には、殴り合って物事を決めるガンツみたいな世界があるらしい。権力もそこから生まれる。なんかすごいところだ。一番最初の自然状態から、なんか秩序ができるのだろう。わたしだって生成するのに、世界はもう生成されている。それがわたしにはたまらなく不愉快で安心できる。わたしはもっと人を殴ったり殴られればよかった。面と向かって人を殴ったのは一回だけだ。詩も殴るようなものだといい。わたしはコーヒーを飲んだ。それは喫茶店でだ。やっぱり喫茶店だとコーヒーを飲む。

 わたしは家に帰ったらデリダを読みたい。レヴィナスでもいい。レヴィナスたちは努力してる。でもドゥルーズはしてなさそう。ドランクして先のプラトーを書いたらしい。まったくファンキーだ。わたしもそうしたい。あんまり努力せず、というか徹底的にせずやりてえ。

 ああ論文の面倒臭さ!しかし、まあ、よい。わたしはコーヒーなどを飲みたい。でも実際はあんまり。わたしは死ぬことをした!いつか?しかし、死ぬことは自殺というほどではなく、なんかある。たとえば、死を実感する哲学の上昇運動によって。まったく不愉快だ!しんみりしたくないな。パンを食べたい。パンを食べるのは、生きてく上で欠かせない。そうするべき。そこに戻る、つーか食ってる。限界でもなく、飢えを適度に癒やすため。わたしは限界に行こうとしすぎ!しかしまあ、眠いんだいまは。しかし今ってどこだろう?コーヒーを喫茶店で飲む時?こうして書いてるとき?人称がいつもわかんなくなる。いや、時制か

書いたものを他人の目に晒す

 わたしは、昨日から疲れている。なんのために書くのか?つまり、他人の読める環境のために、何を書くのか?と。

 なんのために書くのだろう。なにか、私的なことなどを、書くならば、別にブログとかに書く必要はないし、そのほうが、つまり私的に書いて、誰にも見せないほうがよいだろう。

 ここでいう誰かに読まれるとは、実際はそうでなかったとしても、読まれる可能性がある、ということである。わたしは、その可能性に敏感になり、明らかに、私的に秘密裏に書くときより、つまり誰かに読んでもらうことを想定しないときより、不自由に書いている。つまり、うまく他人の目を排除したり無視できない。なにか、他人の評価がなくては、書かれたことに価値がないかのようになる。

 他人からの賛同や否定以外に、つまりそうしたものを受けると以外の回路が、他人と結びつくために必要である。わたしは、詩も趣味で書く。しかし、そこで、わたしは、他人とほとんど絶望的なくらい没交渉である。つまり、レスポンスはないのだが、そもそもわたしが、他人を自己に対する同調以外の道具として、体質的に見れてないということである。他人へ、なにかを、手渡したいという欲求が、本質的に、ない。他人のために、広い意味で利益になるようなものがない。

 これは、もっといえば、わたしが自己の作品に対して、あなたのためになる!といえるような、そのようなものを、持っていないということである。見出し得ていないということである。

 わたしは、自分の作品の空虚さを埋め合わせるように、他者からの賛同を必要とする。つまり、どこか、自己にとってのよさがない。そのよさとは、他人が受け止めうるに、足るものがないということである。わたしは、書いていて楽しいが、読んでいて楽しいものを、わたしは得ることができていない。一瞬たって、読むに値するような、そのような快楽を手に入れることが、できていない。わたしの作品は、わたしにすら、読むことができない。これはかなり絶望的であるが…。

 わたしは、もし、書くなら、まず、他人に実際に読まれるかどうかはともかく、わたしが一方的にですら、他人に手渡せるものを渡さなくてはならない。それが、わたしには、ない。わたしの作品には、ない。それを、手渡すことを、わたしはしたいし、そのようなものを、作品から持ち出したい、そしてそれを、提供したい。そうでなくては、わたしは、私的な空間から抜け出せず、この公共の場で、なにかを語ることができない。しかし、これは、公共では、公共にとって役に立つことだけを語れ、という模範に、支配されている気もするが…。

ブログ

 眠ることがとても楽しいのだと思う。わたしは今日も眠っていた。午睡とまではいかない。わたしは起き、顔を洗う。顔は目やにがある。一つ一つとる。

 じゃんけんをしていると子供がなにかをいう。わたしのではない。甥や姪だ。姪たちは、なにかをしようとしている。じゃんけんをしているが、別のもっとなにか楽しいことを、しようとしている。

 わたしは眠くなったので、眠ることにした。そんなもんだ。そんなものだ。

 わたしは美術館に行く夢を見た。それはとても楽しい。しかし起きると悲しくなった。コーヒーでも飲もうかなと思う。しかし、そんなことができるわけでもない。カイエのように、書くべきだろうか。自由に書くことが、ひどく難しい。わたしは、わざわざブログをする理由もないのだから。