露出狂=文章

 わたしは、とにかくほっとしている。

 わたしはとにかく虫歯を治したい。

 そんなことを思うことが、わたしの一部になっている。わたしは多分神や仏について語るのではなく、チョコレートが好きとか、田中が暑苦しいとか、ゴミ出しだといった単純な物事から構成されているのだろう。

 放課後は、ちょっとだけ寂しい感じもある。人が急にいなくなって、真空のなかにいるようになる。その真空で影が伸びながら、だんだんわたしは縮んでいく。そして闇のなかに飲み込まれていく。飲み込まれていくのだから、わたしは、いなくなるかもしれず、息がその分荒らげ、しかし、チャイムなどが鳴ると、静寂は一気に騒がしくわたしを消去する。そんなことが、時たまあったというだけで、記憶というもの、学校というものが愛おしくまた憎たらしくわたしにとって、異物として、ある。それは、心につけられた、ある種の痛みのようで、それがうずいたり消えるのを、わたしはどうにもできず、そこでわたしは複数化されている。複数化されることでわたしは、わたしなのにわたしでないもの、身体というものを魂のなかにも獲得する。

 勃起したのを見られたとき、射精をイメージされる、とイメージする。アウグスティヌスによれば、勃起は防ぎようがない。記憶というものも、ある時は防ぎようがなく思い出される。ベルクソンは過去は過ぎ去らないという。過去という漢字に、passéというアルファベットに、徹底的に反抗するそれは、なんともいえないくらいに、美しい概念だなと思い、わたしはノートを取り出す。

 ノートには、思うことが書かれ、その私的な部分こそが、わたしの子宮なのであり、臆病なわたしはそこで死ぬことだけを考えているようだ。「やあ」とわたしの父は、多分いったことがない。家族で、よお、や、やあ、はいわれないものだ。わたしは、ひどく個人的だから、個人的でありたいと願う。しかし、誰にも宛てられていない手紙を、誰かに盗み見せさせたいという欲望がある。

 それは、露出狂に似ているかもしれない。露出狂は、体を鍛えたりするのか。たとえばペニスやヴァギナを、チンコやマンコを綺麗に磨くのだろうか。多分しない。それは、他人に見せるには、あまりに不十分な代物だ。しかし、それを見せる。見せるためではないものを見せる。それは、わたしにとっては、伝えるものはきちんと精査せよ、というコミュニケーションのコードを少し外したり、歪めているように思える。露出狂で、わたしはありたい、ということになるだろう。エクリチュールの露出狂。

 わたしは、見られれば無意味である。だから、見せないことをしなくてはならない。たまたまそこにあって書いた、見せようなどとは思っていない、なんという屁理屈だろう。ゲノムについての世界的権威の講演会を今度聞きに行く、と父はいっていた。父は疑似科学に前は嵌っていた。わたしも、哲学というよくわからぬものに嵌っている。よく似た親子だなと思う。