考察とメタ、過去についての反省

 あったことでも書いてみようと思う。

 わたしは、しかし、なにがあったといいたいのだろうか。わたしは、過去について、語りたいと狂しく思うことがある。しかし、それは具体的なあのことやこのことでは、特にない。むしろ、具体的なあのことやこのことが溜まっていくことで生まれる、過去のようなものを語りたいわけである。過去の雰囲気のようなもの、過去の重みのようなもの。

 わたしは、なぜ過去に拘るのか。わたしは過去をうまく想起できない。わたしは、ご飯を食べても、なにを食べたか、あまり思い出せない。思い出せ、と命令されれば、思い出す。だろう。しかし、そうして思い出したものは、どこかわたしの思う過去ではない。理想と現実の乖離。わたしは、なにか、多分理想的な過去を見たわけではなく、理念のような、実現不可能なものがどこからかやってきた。普遍性のように、経験からでは想定できない、不思議なものとして、理想的な過去がやってきている。

 わたしは、小説などを書く。わたしにとっての過去は、多分、そうした理想的な過去にいつまでも触れれない失敗としてある。不可能なものへの憧れとしてある。とても恥ずかしいし、なんというかメタ的であり、ここでいうメタとは、過去について反省をしながら、しかし過去を実際に過ごすことからは、あるいは想起することから、逃げている、ということである。過去とはなにか?を反省する前に、今を生きよ、それが過去になるのだから。あるいは過去を語れ、と。

 あったこととはなんだろうか。天気が晴れていた。外へ出た。人とあった。外は車が混んでいた。などなど。わたしは、あまりにもつまらないことしか書くことができない。わたしは、過去とはなにかを考えることはできる。しかし、過去を物語として提示することが難しい。

 わたしは、ある日、少し言語化不可能な経験をした。そういってよいのか、とわたしは疑問に思う。あれは、そんな言葉によって纏められるものなのか、と。詩を書けば、わたしはその日に近づくことができる。ならば詩をすればよい。しかし、わたしはなぜか、この散文というものに、魅力されている。本当に、言語化できない、理解できない衝動として。しかし、あまりにその衝動について分析するのは控えよう。まず、生きなくてはならない。こうして書いてあることは、たしかにわたしの過去になるだろう。

 ある程度の分量がいるのだろう。だんだんとこれは、過去になっていく。詩や哲学は、未来である。なんて馬鹿らしくもいってしまおう。未来にそれは居続ける。過去にはならない。つまり、どうでもいいものとして過ぎ去らない。それが苦しさのようなものだろう。わたしは適度に、なにかを流すことができない。この私とは、あきらかに私的だけれども。誰にでも当てはまるものではないけれど。

 なんだか反省になった。しかし、不可能性として、むりやりそれを過去として認めること、がよいのだろう、というふうに言葉たちはいっていて。なんだか、嫌な日だなと思う。とてもよくわからないが、わからないことなのだろう。

 過去について、考えることは、そんなに多くはない。