ごろごろアルチュセール

 とくにすることはなく、ごろごろとしている。市田良彦の『アルチュセール ある連結の哲学』だけは、とりあえず読んでいる。しかし非常に難しい。革命論や哲学論は読んだことがあったのでなんとなくわかるが、精神分析マキャヴェリの話は読んだことがないので、よくわからない。アルチュセールの著作、遺稿がたくさんあるけれど、それらをどうにか読むことをしたい。読んでいこう。

 アルチュセールについては、まだ読んでないものがたくさんある。市田さんの本は、哲学する気を起こしてくれるいい本だ。アルチュセールの解説書としては今村さんのアルチュセール全哲学があるけれど、あれよりももっと踏み込んだ、解説に多分留まってはいない、オリジナルな思想がそこには載せられている。オリジナル、というのは市田さんの意見や思想が、というより、アルチュセールという思想家の思想の構造を把握する、その手際がオリジナルという意味だ。

 なにか、このサイトで、批評めいたことなどしてみたいとは思わないでもないが、しかし労力をかけたなら、いや、結局やるかやらないかだ。ちょっとやってみようか。しかし、サイトはなんだか一日で書かないといけない感じがしてしまう。まあそんなのいいから書けばいいんだけど。

昨日のすき焼き

 昨日はすき焼きだった。とてもおいしい。いいお肉を買ってきてもらったので。わたしは卵をときながらいいなと思って食べていた。するとAが「もっといいお肉知ってるよ」という。Aは別に金持ちでないし、それをひけらかすわけでもないので、別に非難するわけではない、というのはみんなわかった。どこ、とCが聞くと

「大阪の親戚のところ。おじさんのいとこがやってる。うまいよ」

という。ふーんとみんななった。大阪にそういえばみんな行ってないね、という話になった。修学旅行、そして卒業旅行のときにUSJに行ってからいってない。

 わたしは、でもこっそりといっていた。こっそりとなんていう必要はないけれど、わたしは一人で大阪に行ってみたかった。日本橋なんかを練り歩いた。

 そしてアニメイトにいって、なにも買わなかった。ライトノベルを買ってもよかったけれど、なんだか最近のやつは、嫌だ。嫌だったので、CDショップでジャズのCDを買って帰った。

 わたしは、すき焼きを食べ終えて、部屋に戻った。みんなはもうちょっとべらべら喋るみたいだった。わたしは疲れたので部屋の床に寝込んだ。

 ペットの猫が来て、わたしの横をうろうろする。わたしはそれをじっと見ている。

 近づいてきてわたしの頭に尻尾があたる。そんなことは普段しないのに。彼女がドアを開けて「もっと飲もうよ、降りてきてよ」という。わたしはわかったといって起きようとすると、立ちくらみがした。なんだかそのとき急に楽しくなった。わたしは

「わかった、わかった」といって、彼女の肩を触った。彼女は

「はよせい」とかなり笑っていた。わたしはそれにドキッとした。浮気でもしてるんじゃないか。わからないけれど、そんな理屈も無視して、そう思った。

mehliana

 Youtubeの昔見た海外のバンドが思い出せない。検索とかウィキペディアとか使ったけど出てこん。Youtubeの履歴なんかを見てもいいが、それは膨大すぎる。前衛的なロックバンドで、なんかよくわからんところで、ゲリラライブしてるのが有名なバンドだったはず。最近は、そういうバンド、自分的には、あんまり形式的にしっかりしてなく、アドリブ性の高いものを聞いている。今日はYoutubeで、mehlianaというアルバムを聞いた。とくにHUNGRY GHOSTは素晴らしい。ガチャガチャ鳴ってる音が、予測というか安定的な図式に則らず、その度に曲の全体図が切り替わっていく感じがいい。外枠を決めて、そこに音を当てはめるんじゃなく、もっと生命的に、一つ一つのその度の音が曲の形を変えていく。その油断のならなさが曲を定型化せず、心地よい細部の変化による魅力を起こしている。気づいたときには、最初は小さな変化だったのに、振り返ると大きく違っていく。

 わたしは、多分定型だともう曲の枠が決まる、というか、曲の音たちが管理され、野放図になることができない。つまり自由がない、というか、音にはどうしても枠組みから離れていく生命のようなものがあるのだから、それを開放してやる、どこへ行きつかもわからないのしてやる、という実験的なところが嬉しいのだ。さっきのmehlianaもそういう意味でゴールがわからず、やってみなければわからないという意味で、実験的である。それはわたしがつねに、音の生成過程に普段より近くなっている、というか音楽が過去のリサイタルではなく、現在形であり続ける、という状況、それがあるから、わたしはとても嬉しい。それは、つねにわたし自身に思考というか、作者の苦闘を歩いてる気をさせるし、作品の枠にはめられてないからわたしならここはどうするだろう?という、想像性がある。想像性とは、わたしがたんに受動的なのではなく、作者も悪戦苦闘してる問題が解決済みではなく、問いとして残されており、そこにおいてわたしがその問いを、音楽という形でなくても、思考する自由があるということ。よくできた作品は、もうすでに答えを出している。それではわたしは簡単にその答えをしれるが、思考したり、さっきは書かなかったけど感じることはできない。わたしは、音楽から、答えではなく、問題をもらいたい。

 

カフカのアメリカは素晴らしい

 けっこう最近は本を読めてる。哲学書が多い。けれど、前から読みたいと思っていてしかしうまく読めなかった小説が読めるようになってきた。

 それは嬉しい。毎日コツコツ読んでいたおかげだと思う。昨日カフカアメリカを読み終わった。アメリカ、というのは、城と審判と一緒に、カフカの長編三部作をなしている。

 カフカの小説は、というかアメリカのことを念頭に置くけれども、なにが起こるのか先がどきどきする。それは、普通のエンタメ小説とかと違う。普通のエンタメ小説、というのも、実際に何を示すのか曖昧な概念だ。わたしがここで漠然とイメージしてるのは、だから普通のエンタメ小説などといわずその内容をいえばよかったのだが、事件が起こって先がどうなるか気になるというものだ。

 まだうまくいえていない。たとえば、敵を倒す、ラスボスを倒す、あるいは謎を解く。そういう目的に向かって主人公たちが、様々な難題を解く、という類の小説のことを考える。

 そこでは目的が決まっていて、話の流れがわかる。たしかに、敵を倒すまでにいろいろな出来事が起きるし色んな人に出会うだろう。しかし、作品の枠は堅固だ。敵を倒すことに向かっている、という話の軸はしっかりしている。その軸によって、わたしはその作品はどんなの?と聞かれたときに「主人公が頑張って敵を倒す小説だ」ということができる。

 でもカフカアメリカの場合、目的がよくわからない。主人公の目的がよくわからない。アメリカに流れ着いた十六歳の少年が、職を探そうとする。しかし、職探しのために彼は集中できない。それよりも、放浪人にひどい目にあわされたり、拉致されたりする。もちろん、普通の小説でも、それはよくある目的への障害として、そういうことはある。しかしアメリカの場合、その出来事が主人公を惑わすというか、なんだかぶつ切れの出来事で、そういう目的なんかの意識がぜんぜんなくなる。主人公は職を探そうとしているが、その目的に沿って障害や目的の達成といった理解に還元できないことが、あまりにも多く起こっている。

 作品の枠がわからないというか、たやすく概念化できないものを、ぽんと渡されてるような気がする。なかなか解釈できない。もちろんそういうものについての分析もするべきなのだが。しかし、作品の枠とは、なんなのだろう。作品が、こういう作品だね、と予測できたり把握できない。人間は基本的に世界のものをいろいろ大まかにでもわかってるから、生きていけるのだが、カフカアメリカは、そして他の小説も、理解できない生のものをそのまま口に押し込まれたようになってしまう。わたしはうまくそれを消化できない。作品の枠を、作ろうとしていない。それは多分、強引に理解すると、カフカ自身が、目的もない様々な出来事を、そのまま、主人公という焦点に紐づけするのではなく、もっと広大な技量によって、様々な出来事を関係させたりさせないながらも共存させているのがすごいのだと思う。

 因果関係にそれほど明瞭に回収できないことがある。隣の家の人がいま昼寝していることは、わたしとそこまで関係ない。しかし、世界とは、わたしと関係ないものがわたしの隣にあるということだとわたしは考えている。世界には、わたしとほとんど関係ない、他人がわたしと同じ世界にいる、という不思議なことがある点に、その世界性があると思う。わたし中心の、わたしの人生のような出来事では、掬いきれないことが、わたしの横なんかで起きている。ほとんど直観というか経験でいっているが、一応これはわたしのなかに、分析できないほど事実としてある。それで論理的正当性があるわけではないし、もっと噛み砕かなくてはならない。しかし、わたしはそう思う。

 そうした隣の他人や要素を、世界のなかに書き込めることが、つまりわたしと関係をもたず、とりあえずわたしの因果連鎖とそこまでの関係をもたないものを書き込めることが、カフカの素晴らしさだといいたい。彼は、世界を因果的に繋げなくても、実際はあるのかもしれないが、それはここではあまり関係なく、むしろ因果連鎖というガジェットをそこまで使わなくても、世界の出来事を語れる、あるカオスともいえるこの日常的な世界を語れることに、カフカの素晴らしさがある。

 とにかく、省察めいたことを書いたが、カフカは素晴らしいし、カフカアメリカは面白い。わたしはこの機会に城や読みかけの審判を読んでもいいし、なんなら全集も読もうかと思っている。ただカフカは読むのが大変である。時間もかかる。わたしは、哲学書のほうが得意なので、小説を読むのは苦手だ。まあ、筋が見えにくい小説ばかりを読んでるからだとは思うけれど。しかし、構造が見えすぎる小説は、単なるテーマや主張の具体化でしかなく、わざわざその小説自体を読む必要性を感じられない。

市田良彦

 ドラゴンスレイヤー。そんなのが頭のなかで響いた。なにかのライトノベルだっけ。ドラゴンスレイヤーズだっけ。わかんねえ。でもよくわかんないが、まあいい。ドラゴンスレイヤー、検索するのも面倒くさい。異世界系だろうか。

 調べたらゲームだった。ビデオゲームファミコンとかそういうの。とても古い。なんでこんなの知ってるんだろう。ぜんぜん心当たりがない。心当たりがないのに、知っている。そういう幽霊みたいな記憶がある。まあなにもかも記憶してることの由来を知っているわけではないんだろうけど。でもそうはいっても、やはり、こんなことを何故知ってるんだろう。考えられるのは、昔見てたゲームについてのテレビ番組で見たかもしれないということ。そこでは、古いファミコンとかのゲームの紹介もしていた。それかYoutubeのゲーム紹介動画か。しかし後者は全然見ていない。うちにはファミコンがない。ていうかもう一度調べたらドラゴンスレイヤーは、パソコン用でセガサターンとかゲームボーイに移植されたらしい。ぜぜん話の前提が違ってくる。まあいいや。

 それより、それよりなんだろう。ドラゴンスレイヤーから離れたい。スレイヤーズってラノベはあるっけ。あった、調べたらあった。読んでみたい。別にドラゴンスレイヤーはやりたいとは思わない。だからスレイヤーズは読んでみたい。でもこれもかなり古い作品だ。古すぎるくらいだ。2000年とか。今のラノベたちのご先祖。どれくらい影響関係があるかは知らないけど。そんなものを読んでもまあ娯楽にすぎない。でも本当はガルシア・マルケスとかを読んでたいけど、ラノベにもうまく入門したい感じはある。ずっと読んでると入門できるかもしれない。コーヒーを飲みたい。でも夜になると眠れなくなるからやめておく。わたしはとにかく書きたいんだと思う。なんでもいいから、どうでもいいことを。ライトノベルはそのうち書こうと思ってる。商業性は皆無だろうけど。しかし個性は出していったほうがいいらしい。いいらしいというが、というかそれは売れるためじゃねえ。どうせ売れる確率なんかないんだから、自分のためにやったらいい、という思考に最近はなっている。

 アルチュセール市田さんのある連結の哲学も読んでる。市田さんの本はクソ難しい。マルチチュードの革命論も、むずくてなげてる。でも彼の書くアルチュセールはむっちゃ魅力的。うれしいね。こんな面白い哲学研究をしてくれる人がいるのは。だから、まあ読もうと思うし、アルチュセールも読もうと思う。僕は一体なにをしたいのか?それは時と場合によるとしかいいようがない。僕が本当にしたいことなんかわからない、っていうかそこまで抑圧されてねえ。コーヒー飲んじまった、まあいいや。哲学なのか、文学なのか、とりあえずどうするか。どっちもやりたい気持ちはある。でも小説なのかな。まあ無益な人生でもいいでしょ、とは思う。別に成果がなくても。いまのところ哲学のほうが、やや向いてそう。でもそんなのはどうでもいい。どっちがやりたいだろうな。市田さんのアルチュセールを読むと、哲学者になることはとても魅力的な職業に思える。でも、わたしの実存的な問題は、まさに小説によるものかもしれない。というか、哲学はなんか具体性がない。でもわたしは自然とどんどん抽象的なことばっかいっちまう。どういうことだろう、これは。なぜなんだろう。俺はなにをしたいんだろう、とかいうのは思考の罠だ。詩、哲学、小説。まあ3つある。3つある、どれもまあ職業にはなんない。じゃあ自分にとって一番意味があるものはなんだろう。なんなのだろう。小説だろうか、詩だろうか、哲学だろうか、でも時間を一番かけて読むのは哲学だ。でも哲学は四十歳まで続けられる自信がない。小説や詩なら、それはできるだろう。職業としては、小説家に一番なりたいだろう。しっかし、なにが一番いいんだろうか。全部できりゃ、そりゃいいが、そんなに時間があるわけでは、決してない。というかちゃんとやるなら深めたい。できるところまで。哲学はけっこう先が見えてるし、根本的な不満もある。でも小説は、まだ、いや可能性があるとかでやるわけではない。そんなのは無意味だ。とにかくやるべきことを好き勝手やればいい。しかし、どうなるんだろうか、それが。哲学には、ほとんど絶望している。悲しいくらいに。批評は楽しいのだろうか。わからない。わからない。どうすりゃいいんだろうな。わかんねえ。でも小説家なれますかねえ。わかんねえな。とにかく書くしかないんだけど。詩や小説は、細かい楽しみはある、書いたときの。でも哲学は俯瞰して読み込む感じだ。世界はそんなに理性的か?しかし、これはもう哲学ではないか?こんな疑問が頭に浮かぶなら。詩人、小説家、哲学者。文学を批評する哲学者?でもそうだな、哲学を本業でやるべきだろう、死ぬまで自分のために。

幸福とか

 書くことをしていた。疲れた。わたしはかなり書いている。書くことをしている。なぜ書くかはわからない。仕方ない。仕方ないと思う。書きたいことは、書かないと出てこない。書くというか、言葉がないと、書くことができない。というか考えることができない。誰かと話したり、読んだり、書くことで、なにか頭のなかだけでは、なにも思いつかないのが、思いつくことができるかもしれない。そう思うが、どうだろうか。花がある。それはどの庭先にもある。庭先でわたしは体操をする。体操はとても楽しい、と思う。わたしは過去七仏という概念を中学2年の秋に知った。そんなものがあるのか。とわたしは思った。

 わたしは父に聞こうとした。しかし父は出ていた。いつもはすぐ帰るのだが、帰って来ない。帰って来ないから、わたしはなんともいえず涙を流した。わたしは仏というのを知らない。見たことがない。仏像ではあるが。仏像ではあるが。仏像は仏の表象だ、小難しくいえば。死ぬことはできない。どういうことだ。わからない。わたしは書き出してからようやく頭が連想的に働き出す。錯乱しているかもしれない。スロースターターなのだ。

 ということにしておこう。わたしは父に受験勉強のときスロースターターといったかもしれない。その晩父は泣いていたわたしを見てどこかへ行った。それはわたしはよく覚えているのだが、歩いて空へと登っていた。マホメットか。彼は天使に連れられたという。エルサレムエルサレムに行くことは多分一生ないだろう。

 わたしは父が降りてきたのを見て翌朝聞いた。わたしは過去七仏のことも、聞きたかったのだ。わたしは聞いた。すると父は「わたしはぐっすり眠っていたさ」というのだ。わたしはではあれは父ではなかったのだなと思った。それ以来父への不信が始まった。ある神話とはいったいなんなのだろう。それは理解力の不足なのだろうか。しかしわたしにとっては、過去とはこう語ることしかできないものだ。わたしはモスクへも行ったことがある。そこはカメラを禁止されていた。しかし現地人はみな平気な顔さ。まったく嘆かわしい。いやだいやだ。死んでしまいたい。

 わたしは急激に死へ縮小し爆発し夜空を駆け抜ける。そんなことをしたことがあった。わたしは言葉なんかはなくていいと思った。しかしそれは間違いだった。間違いだったのだ。だからこうして今もわたしは喋っている、言葉を使って。バタイユなんかよんだせいか。

 バタイユについては横田という立命館の学者の、脱ぎ去りの思考というのがよい。かなりクリアだ。しかし貧しいと思う。いやそれはクリアさの代償であり、単に内容がないのではなく、極端なまでに、というほどではないが、きちんと抽象化された結果であり、わたしはあのようには書けないだろう。嘆かわしいことだ。わたしの力のなさだ。ただ疑問としては、概念的把握を解除し事物そのものの未知性に触れるとあるが、概念的把握がすぐにそこへ襲ってくる。ではその概念的把握は、なんらかの変容を起こすのだろうか。概念的把握以前の事物が、モノ自体のようなものであり、本当に不可知なら、概念的把握はただ流産しその都度自己の不可能性を知るだけであり、非知そのものは知られないのだろうか。わたしは批判をしたいと思ったが、むしろ後者の認識の内破という視点が、わたしが横田がしていると思ったその視点が、面白いと思った。単に知が更新されるのではなく、ただ非知は非知として、しかし横田はカントの超越への独断論としてバタイユを示す可能性を示していたからやはり概念的把握は非知の徐々に取り込むのだろうか、まあしかしそんなことはどうでもよく、それとしてありただ流産する。どこでかはわからない。認識が十分に理性的に働かされたところで、悟性が内破し捉えきれぬものが出てくる、そしてしかしそれは捕まえることができない。つねに知られないものが知られないものとしてつねに遠くにあること。それは神秘というもの、というよりも、知にどうしても限界があり、そしてその限界がアクシデント的に出てきてしまうという、不可思議をいっていないか。なぜ知は知り得ないものを知りうるのか。つまり、限界を知りうるのか。その起源としての、内的体験は、明らかに、不思議である。

 もう少し書こう。わたしは一本松を見に行った。あの東北のだ。わたしは嫌な気分になった。詳しくは書かない。しかしわたしと同じような理由から同じように思うものはいるだろう。わたしは東北を助けることなどできない、とそのとき、自然と受容していた。神であるならば話は簡単である。神であるならば、ただ治せばいい。しかし不可能性がまず突きつけられる。人間にはすべてを治すことなどできない。だから、不可能なのだ、被害者をすべて救済することなど。わたしの個人的な課題でいえば、わたしはしかし、そうした不可能性のなかでもなにかをするべきだと思うし、またそう思うべきだと思う。

 不可能性がつねにある。完全な解はない。すべてを善にすることはできない。悪がこの世にはある。しかしそこにおいて、無意味かもしれなくても、することを肯定したい。カミュ的な命題だ。生きることは無意味なのに、この世の悪を消すことができないのに、なにかをしなくてはならないということ。この事実に疲弊しないまま、前へ進まなくてはならないのだろう。

意味を見出す

 幸福とはなんなのか、わたしはそんなに知りはしないさ、という女の子がいた。その女の子はクラスのなかでいじめられていた。そして次の年になるとその子が、いじめっ子になっていた。わたしはずっとそんな彼女を見ていたことがある。

 なにが幸福を意味するのかはわからない、とわたしは思う。思うのでそうしている。なにをしている。なにをしているのだろう。わたしは幸福の意味がわからないので、幸福へと進もうとしている。わたしはなにか、見るべきことがたくさんある、この世のなかを見たいと思う、と母親にいったことがあるが、母親は

「そんなもの、ないさ」というのだ。いうからわたしは、それはなんだか残酷だなと思う。残酷だからわたしはさっさと死ぬことだってしてみたわけさ。もちろん観念のなかでだけど。しかし、いつわたしは死ぬんだろうか、と考えることは、幸福の問題にぴったりと張り付いている。わたしはいつも焦ってしまうのさ。とかなんとかわたしはいっちゃう。そうしてわたしはいろいろなことを誤魔化すつもりだ。

 わたしは誤魔化すということが好きだ。お釣りや時間や言葉を誤魔化す。金はないし時間はないし言葉もない。だからあるように見せかける。それが誤魔化すということだろう。わたしは刃物を持つ一匹の動物に、そのうちなり、あらゆるところを駆け巡るかのように、たとえばわたしの家から半径5メートルを駆け巡って警察の御用になるかもしれん。まったく面白くもない空想だ。しかし、わたしはそうしたことをしても、おかしくはないなと、わたしはそこまで自分の正気を信じることはできない。刃物はそんなに切れない。梨を昨日切ったが、うまく切ることができなかった。人間ならば、勇気が出るのだろうか。人間ならば、ああわたしは意味はともかくいいたい言葉はいっている、と嘆息するようなものたちを、切り殺すことに、なんの躊躇もないだろう。

 アウシュビッツについてわたしは、平和学習にでも行こうかと思う。なぜ行こうと思うのかはわかりゃしない。しかし平和記念資料館は行ったことがない。だからまずそっちへ行くべきかもしれない。しかしアウシュビッツも見ておかなくてはならない。パウルツェランを読んでいた。それはとても悲しいことだった。だからアウシュビッツに行くのだろうか。アウシュビッツはそんなところなのだろうか。アウシュビッツは行きたくて行くようなところなのか。もっと実は、わけがわからないのに、わたしたちが歩いていればふと行ってしまったようなところが、アウシュビッツなのではないだろうか。アウシュビッツにわたしは来年行こうと思う。