書いたものを他人の目に晒す

 わたしは、昨日から疲れている。なんのために書くのか?つまり、他人の読める環境のために、何を書くのか?と。

 なんのために書くのだろう。なにか、私的なことなどを、書くならば、別にブログとかに書く必要はないし、そのほうが、つまり私的に書いて、誰にも見せないほうがよいだろう。

 ここでいう誰かに読まれるとは、実際はそうでなかったとしても、読まれる可能性がある、ということである。わたしは、その可能性に敏感になり、明らかに、私的に秘密裏に書くときより、つまり誰かに読んでもらうことを想定しないときより、不自由に書いている。つまり、うまく他人の目を排除したり無視できない。なにか、他人の評価がなくては、書かれたことに価値がないかのようになる。

 他人からの賛同や否定以外に、つまりそうしたものを受けると以外の回路が、他人と結びつくために必要である。わたしは、詩も趣味で書く。しかし、そこで、わたしは、他人とほとんど絶望的なくらい没交渉である。つまり、レスポンスはないのだが、そもそもわたしが、他人を自己に対する同調以外の道具として、体質的に見れてないということである。他人へ、なにかを、手渡したいという欲求が、本質的に、ない。他人のために、広い意味で利益になるようなものがない。

 これは、もっといえば、わたしが自己の作品に対して、あなたのためになる!といえるような、そのようなものを、持っていないということである。見出し得ていないということである。

 わたしは、自分の作品の空虚さを埋め合わせるように、他者からの賛同を必要とする。つまり、どこか、自己にとってのよさがない。そのよさとは、他人が受け止めうるに、足るものがないということである。わたしは、書いていて楽しいが、読んでいて楽しいものを、わたしは得ることができていない。一瞬たって、読むに値するような、そのような快楽を手に入れることが、できていない。わたしの作品は、わたしにすら、読むことができない。これはかなり絶望的であるが…。

 わたしは、もし、書くなら、まず、他人に実際に読まれるかどうかはともかく、わたしが一方的にですら、他人に手渡せるものを渡さなくてはならない。それが、わたしには、ない。わたしの作品には、ない。それを、手渡すことを、わたしはしたいし、そのようなものを、作品から持ち出したい、そしてそれを、提供したい。そうでなくては、わたしは、私的な空間から抜け出せず、この公共の場で、なにかを語ることができない。しかし、これは、公共では、公共にとって役に立つことだけを語れ、という模範に、支配されている気もするが…。