汗や体臭としての言葉

 コーヒーを飲むのが好き。そんなことをいいたいわけではないが、まあいう。そうすると主張のようである。しかし、コーヒーが好き、というのは、わたしはあなたを支持する、のような強い主張ではない。わたしはむしろ主張ではないのではないか、ということまでいいたい。コーヒーが好き、というのは、ふということで、しかも、思うよりも先に出てくる言葉で、それを深層意識や無意識がいった、と解釈することで、心のなかから生まれてきた、わたしの本心を表すもの、という解釈はできなくはない。しかし一方で、そのふとでたことは、意識に回収されず、汗や体臭のように、ふと出てきたもの、たしかにわたしのものだが、それらはなにも、わたしの意識や本質を反映していない、ということができるかもしれない。わたしの実体験としては、言葉は、あんまり意図的ではなく、というか言葉は多分コミュニケーションとしてまず使われ、コミュニケーションのために、あるいはコミュニケーションの過程から意図のようなものは産まれるか要請される。ということができる、というか実感である。だから、他人に伝えることが、まず第一ではなく、コミュニケーションになりにくい、なんというか詩ほどには意味などを離れてはいないけれど、他人とわたしを分けるための意図のようなものに支配されていない、書き言葉は、これは多分ブログも含まれるが、あんまり意図を持たなくて、むしろ汗や体臭のように言葉が出るところなのだと思う。わたしは、多分、他人とのコミュニケーションを書き言葉や、ブログや論文なんかでもしたくはなく、多分他者になにかを伝えることには興味はなく、もっと汗としての言葉、意図や意味は問題ではなく、もっとふと人間の声帯や脳の誤作動によって、機械の誤作動のように生まれる、本当に意味の前の、音や言葉が好きなのだと思う。そうであるから、わたしは日記なんかをあんまり書けず、日記や自伝はあたかも意図や意識という中心的なプログラムがあり、身体や周囲の出来事は、そのプログラムに沿うか沿わないかによって判定され、意識や意図の完遂の、失敗するにしろしないにしろ、過程の物語として語られる。それが人生なのだと考えれるが、わたしはあまり言葉も含めて意図的になにかをしない、というか意図なんてそんなに強固に持てず周囲や他人の変化で変わるし、そんな強固な意思なんて嘘じゃないか、あまりわたしのかもしれないが人生というものの姿を現していない気がする。もちろんフィクションとしてそれでもいいのだが、わたしはそっちのフィクションは取りたくない。わたしはむしろ汗や体臭や排泄のように、私からでるけれども私の意図や意志に還元されないものたちを、撮影し続け、その意図や意識のような一貫性と無関係で断片的ともいえるものたちの、時間の流れのようなものが、人生であり、自伝や日記としてふさわしいように思う。わたしは、今日ご飯を食べた。それはそうだ。そして寝た、あるいは寝なかったかもしれない。もちろん意図のようなものはあり、この人間という機械はそれなりにカオス的でない振る舞いをするけれども、しかしその意図の完遂には還元されない、非意志的振る舞いはあるのであり、書き言葉が、意図を生み出すコミュニケーションを第一に考えない、とわたしは感じているから、もちろんわたしは今日ポーカーをした、とかみたいなことはいいたいけれど、それは意図的にではなく、もっと汗のようにふるりと出るものであればよい。コミュニケーションを、書き言葉にまで入れ込むと、入れ込みすぎると、はっきりいって、とても不愉快になる。わたしたちの、自由にならない身体性、と不正確な語になるが、そのようなものに私はこだわりたく、まあ誰が聞いても聞かなくてもよいが、その言葉のようなものを、端的な意識的な物語に支配されたくはないと思う身体性が、わたしにはある。