アルチュセール、小説のかけなさ

 アルチュセールはよくわかんない。愚痴ですが。一応研究対象としてアルチュセールをやっている。やっているのはほとんど偶然。だからまあ、そんなに考えて研究対象にしたわけではない。たまたま市田良彦のクソ難しいけどクソかっこいい岩波新書アルチュセール論を読んで「やべえ!」と思ったのがきっかけだ。といえるが、まあその後もなんやかんやあって、とりあえずアルチュセールを読んでるみたいな日数が重なってる。そうするとちょっとづつわかることもある。だが、月並みな言い方、だがわかるとどんどんわかんないことがでてくる。アルチュセールはマジで認識論的切断の理論を、マルクス読解のための理論を信じてるのか?とか。わたし的には、アルチュセールマルクスおよびその他のテクストにも応用できる読解の理論、だいたい『マルクスのために』の話だが、はやっぱアルチュセールのいう科学的、この語の意味もよーわからん、マルクス主義が科学だっていうのは今の視点から見ると寄り添いが必要、なマルクス主義を提案するためのまあ逆算というかこじつけなんじゃね、ってのも強く思う。まあこのこじつけ説は勝手にそう穿っちゃうけど、ヒューマニズムマルクス主義とかを批判するっていう政治的な意図があったのは無視できねえと思う。今村はいってるが、理論は政治的意図やそこで行われる論争のコンテクストを見ないといけない、だからアルチュセールマルクス読解が間違ってるのは仕方ない、的なことをいってるのを思い出すと、あながちこじつけ説は間違いでもないかなーとか思う。まあちゃんとやるには文献の引用論証がいりますが。

 最近はデリダも読んでるけど、デリダはけっこう、けっこう面白い。評価を改めた。密に読んでるおかげである。最近の悩みは小説をどうすっかなあ?ということ。しても書けないし、そもそも小説を読んでもあんま楽しくなく、詩や哲学読んでる方が面白く、俺なんでこんな小説に拘ってんの?と思ったことがきっかけです。といってもこの思考はもう十回くらい間隔を開けてしてるのだが。約束するのは難しい。それが小説の難しさ。ちゃんと伏線を張ったら回収するとか。ストーリーの宿命みたいなもん、と勝手にいってみる。よくわかんねー。