散文について

 コーヒーがほしくて、外のほうの、いい店に行く。

 そこまでおいしくはない。本などを読む。店員はおばさんだった。若い子もいた。動きは鈍かった。

 コツコツと語学をしている。語学をするのは、大事なのだろう。語学をするのが、わたしは好きである。ドイツ語をこの夏はしようと思う。

 バタイユについて、『脱ぎ去りの思考』という研究書を読む。カントが終わりの方で出るように、理性の制限内における理性の活動の極端化により、物自体との出会い=非知が起きる、というふうにこの本の主要なテーマは理解できる。カントのように、理性の範囲とその外の世界という図式を設定する。しかし、カントならば越権あるいは独断論というところの行為をバタイユはしてしまう。その越権としてあえて哲学を肯定するというが、その非知とは、具体的には、どのような経験か。何かを見るのか、何かを知るのか。また非知は、何度も概念化され剥ぎ取られるというが、それは非知が概念化されていく、進歩の可能性を語るのだろうか。

 今年の夏は、沖縄にでも行こうと思う。それは、楽しいことだろう。しかし、やはり散文を書くことは、ひどく難しい。しかしとにかく、書き続けるべきなのだろうか。とても、嫌なことではあるが。とにかく、わたしは、あんまり散文のよさがわからないようだ。