明晰でないことに由来するオナニー

 わたしはコーヒーを飲んでいた。この文章から始めよう。しかし、いったい、なにを。

 ああ神よ!と冗談でもいう人。わたしたちもその列に加わる。そして、冗談でしかそうした言葉を吐くことはない。

 アルチュセールは、神について特段語らない。彼はキリスト教徒であったという。青年期は、ローマ教皇への拝謁を望むほどに。晩年はどうだったのだろうか。

 おそらく、これはつまらない考察だろう。しかし、彼において、マルクス主義と矛盾はなかったのだろうか。青年期は、キリスト教的主題のなかで語ることをするテクストもあった。しかし、わたしはまだ読んでいない。

 わたしがいいたいのは、といってしまおう、神というもの、そんなものと矛盾するセオリーのもとで語りながら、その矛盾を止揚しようというのでもなく、また切り捨てもせず、ただ沈黙のもとに進んでいくことは可能なのだろうか、ということだ。

 あるテーゼを信奉し、しかもそれと本質的に対立するテーゼをもつこと、それはよくあることのように思う。たしかに理論的ながさつさは否めない。理論的ということが、正しいならば。 

 理論的に、どう書くか?それが問題ではあるだろう。市田良彦アルチュセール論は、その矛盾した面の多い、アルチュセールの側面を、止揚させずに書くことを目指していると読み取れる。しかし、わたしはそうでない書き方を、まだ理解できない。端的に、彼のアルチュセール論は難しい。

 キリスト教徒であることと、唯物論者であること、神を信じ、神を前提にしない論理を信じること。それを突き詰めないままに、わたしたちは、大抵生きることは可能だろう。このようなジレンマは、多くの人が、とくに西欧においては、マルクス主義の時代にあったはずのことだから。

 わたしはなにがいいたいのだろう。アルチュセールが、信仰をどう持ち続けたのか、ということを問いたいのだろうか。たしかにそれは、難しく面白い問題だ。しかし、わたしがいいたいのは、そういうことではないようだ。そう問題化する前提を問いたいのだ。

 

 アルチュセールが、神を信じていたとして、二つのもののジレンマ、という図式は正しいのだろうか。マルクス主義を神の信仰に置き換え、擬似的な信仰にすることも、マルクス主義から神への信仰を説明することも、一つの方法としてできるだろう。問題は、そのジレンマを、持ち続けることではないか?

 神への信仰とマルクス主義は矛盾しうる。しかし、ある点では、その矛盾を顕在化させず、避けることもできる。神もマルクス主義も、人間の問題だといい、その対立点を「些細なものに」することもできる。つまり、対立点ではなく、共通点を見ること。そもそも、なぜ矛盾があってはならないのか。もっと別の理論的な態度もありうるだろう。 

 アルチュセールは、哲学を唯物論と観念論に、強引にも分け、哲学の純粋性を破壊しようとする。引用を怠惰によりしないが、純粋な唯物論も観念論もなく、互いが互いの要素を取り入れている。

 哲学は政治だとアルチュセールはいうが、政治のように、原理的にではなく、まるで正反対の要素を、おそらくは政局に勝つために、簡単にいえば、相手を論理的に潰すために、受け入れることが、哲学にもできるのだとアルチュセールはいっている。というよりも、哲学はつねにそうしてきたのだと。

 このアルチュセール哲学史観を支えるものを、わたしはまだ理解できていない。しかしそこには、哲学は、首尾一貫した理論ではなく、もっと異質な要素が混ざり合っている、アマルガムだと、暗にアルチュセールがいっているように読み取れることもない。 

 もし、そうならば、まず疑問に思うのは、単に矛盾を語ることで、哲学を「論破」したことになるのだろうか?わたしはならないと思う。いや、そう強く思ってしまう。なぜなのか。

 わたしの語りは、明らかに明晰ではない。わたしはこれを、オナニー的に書いているだけだ。主題も何もない。そもそもアルチュセールが、信仰を失っていたという証拠もない。完全なるわたしの感情移入である。

 アルチュセールについて嘘をいうこと。それは、アルチュセールを、わたしの好きなアイドル=受難者にすることではないか?とわたしは思う。わたしは野原を歩いていた。そこには、猫がいた。その猫はいう。

「あんたは、なにがしたいんだ?」と。

 アルチュセールについて。わたしはアルチュセールについて語りたいのだろう。しかし、それがどうしたというのか。

 矛盾というもの、嘘や虚偽、そして真理、があるという。わたしは、早く外に行きたい。絶望的に生を生きてみたい。あるわたしにとっての重要な命題があるとしよう。そしてわたしは必ずや、その命題と反対の命題を、外側からとってきている。政治の資源の命題が、もはや生み尽くされているならば、すべては組み合わせと乱数表の問題だ。わたしは明らかに、死に近づいている。

 しかし、死ぬことは!とわたしはヴィトゲンシュタインを読みながら思うのだ…。死がそんなにも単純なことなのだろうか、と。ヴィトゲンシュタインはアイドル性が高い。人は哲学者に感情移入をしているのだろう…。わたしは放火犯になって世界を破壊したい。そして、そうしたことは、あらゆるところで今なされている…。わたしはだから罪など特にないのだ…。と一応のことを語らなくてはならない…。