フランス語についてのレッスン

 唐突な、あまりに唐突な、といわれることは、実際にはある予期を働かせる。それはそういい、威嚇する、予言の、つかの間の予言の人間もそうである。彼は、ある唐突さこそが、やってくることに、親切にも教えようというわけなのだ。そういうことで、唐突さは恐らく唐突ではなくなる。しかし、その唐突さを予期するものは、その唐突さの到来に期待と怯えを抱かなくてはならない。これは明らかに強い命題である。

「パスポートはいりますか?」とわたしの姉は先生にいったことがある。それが何年何月であったかはどうでもいい。つまり姉は、端的にいって、一度もいたことはなかった。それは、わたしの想念におそらくあり、しかしその想念を生み出すのは言葉。だからその想念のところにある言葉に、わたしの姉はいる。

 わたしは、わたしの姉、といった。それでもう、わたしの姉はいる。詩のようなフィクション。詩のようなフィクション。言葉が、かろうじて、なきものに姿を与えもせず、あたかもいるかのように語らせる。断言しよう。わたしは、姉の顔も匂いもわからない。姉は、わたしにとって、ただ言葉としてある。その姉を、わたしはなんの必然性もなく、歌いたい。

 言葉はノイズである、という看板がある街。その街はたしかに日本である。日本であることが、しかし、言葉の安定を与えるわけもなく…。ここは、明らかに、バスツアーで来るようなところではない。わたしは歩いた。歩くことで、歩くことがつねになされ、わたしは歩くことをどこまでも続ける機械になる。寝ることもあるだろう。死ぬこともあるだろう。しかし、それは単なる故障である。わたしは機械として、あるき続けなくてはならない。それがその街で得た教訓だ。

 その街は見ると、もうなくなっていた。そして数年後その街はまたあった。わたしは見間違えたことを否定する。それは隠れイマームのように、隠れていたのだ。夏よ来い、とわたしはとっさにいった。まだ春の恐ろしい吹雪が、わたしを襲っていたときだった。だからなのだろうか?わたしは、格段に死を恐れるようになっていた。しかし夏は明らかに命題の変更を要求していた…