アルチュセールが逃げていく

 ぽつぽつと雨が降っている。雨について、とアルチュセールは、「出会いの唯物論の地下水脈」という遺稿のなかで語っている。それも序盤に。

 だからなにがいいたいというわけではない。しかし、雨、という具体的なもの、自然な現象を想起させ、それを出会いの唯物論という新たな哲学でなき哲学のイメージとして使うとき、彼は雨を見るたびに自身の思索を思い出したのだろうか。

 雨を見るたびに、彼は妻を殺したあと十年ほどいきたが雨を見ることはたびたびあったはずだ、そして雨を見ることによって、彼のまわりの風景が彼を刺激し、彼に哲学を語らせた。

 哲学は、純粋な、あえてこの言葉を使おう、概念の学だといわれることがある。しかもその概念とはどちらかというと抽象的だ。人間や雨ではなく、存在や性質といったことに考える。わたしがあまりにも不当に哲学について描写していることをお許しください。しかし、いったい誰に哲学の許しを乞うのだろうか。誰が哲学を保証してくれるのか。哲学自身だろうか。論理だろうか。哲学は底の底まできている、つまり保証することが哲学の役目だとしたら、その哲学の保証は、誰に頼めばいいのか、たとえばその学問の正当性を。

 学問の正当性といわなくとも、思考の正しさのようなものを。いわゆる基礎づけ、しかし基礎づけとはなんなのか。アルチュセールの思索の源であるスピノザは、学問の基礎を、そして思考の基礎づけを行うものを、「コギト・エルゴ・スム」、確実なる我の存在の明証性に置くデカルト、あまりにも基礎づけをしようとするデカルトに対して、次のようにいうらしい。「真なるものは、それ自身によって真であるとわかるし、また偽も明らかになる。」正しいことは、基礎づけされる必要はない、という。

 アルチュセールは、なにがいいたかったのだろうか。そんなことを空想するわけだが。つまり、テクストの意味みたいなものを手っ取り早く教えてほしいわけだが。

 しかし、そんな細部を捨象したものがテクストなのか。端的に、テーゼだけをいうなら、あの論証の数々は、論証でもないいろいろな言葉はなぜいるのか。一つのことをいうだけなら、たった数文で終わるだろう。単純に、明確に、それをいうだけなら。しかし、数々の、もしかしたら当人には書きすぎたかもしれない、これはわたしの書くことの経験をアルチュセールに感情移入させているが、書きすぎたかもしれない、という感情があるかもしれない。

 放課後、わたしはアルチュセールを読んでいた。まったくのちんぷんかん。それでも、読んだり、読まなかったりする。彼のいうこと、彼についていわれる定説や疑問や批判、そうしたこととどこか彼のテクストは離れていく。

 もちろんわたしの読解不足もあろう。しかし、アルチュセールの像は、わたしがおぼろげに感じている像は、そうした彼の周囲の言葉とは完全には重ならない。そして私が紡ぐ言葉も、彼の周囲に漂いながら、彼のテクストからはずれていくだろう。いったいなんのために、書くのだろう?わたしはどうすれば、アルチュセールに会えるのだろう?