知らないままになぜ哲学をできたことになるのか?

 哲学について考えること。実は別にそんなにあるわけではない。哲学とはなにか?ということを考えていたりはしたのだが、しかしそれは、あまりにも無益なメタ的な問いに思えた。

 無益とはどういうことか。それは、わたしの体験談でいえば、哲学をすることに、論文を書くことに継らなかったということだ。

 論文を書くことが、哲学することなのか、という疑問はありうる。たとえば、わたしの場合、ある哲学者のテキストをベースにやるわけであるが、それは一見して、オリジナルに思考することではない、という批判が来そうである。

 自分で一から論理を考えてこそ、哲学者である、というのがよくある批判である。しかし、これにはいくつかの疑問が出せる。とりあえず出せるものとしては、一から論理を考えてこそ、ということをできた哲学者はいるのか?ということだ。

 論理という非常に曖昧な語を使っていたが、わたしは次のようにいいたい。つまり、世界について、なんらの先行する概念や論理構造などを使わずに、まったく新しい世界についての構造を語ること。それが哲学である、というのである。

 しかし、先行する概念や論理構造から完全に手を切ることは、おそらくできない。哲学が言語を使う限り、それは既存の言語なのであり、バルト的にいえばラングとスタイルは選択不可能なのであり、かろうじてエクリチュールにおいてのみ、その自由が与えられる。つまり、言語構造としてのラングから手を切ることは、アプリオリにできないと決まっているわけではないが、この世界において、新しいラングを、既存の言語ほどに充実した形で語ることはほとんど不可能である。

 つまり、新たな哲学者も、そして過去においてザ・哲学者と現在見なされるような哲学者も、既存の言語を用いるのであり、完璧にそこから出ることはできない。これは、形而上学という思考のリソースの、支配性を語るデリダがいうことでもある。言語と、そこから生み出す概念は、言語が新たに打ち立てられない以上、あらゆる人間に共通である。

 もちろん、どんどん脇道に逸れていくが、そうした言語への被投においても、言語批判はなされないわけではないだろう。デリダバタイユなどを例に、そのことを語っている。バタイユは、形而上学の言語を用いて、形而上学の言語を越えようとした。しかし、やはりどんな哲学者も既存の言語および概念と、明確に手を切るわけにはいかない。

 

 もとの話に戻れば、テキストベースに論文を書くことが哲学なのか、といわれれば、たしかに先行する有名な哲学者ほどの偉大さはないと思う。しかし、既存の言語と概念を反省する、という仕方で、哲学をすることは可能であるように思う。まったく、デリダ的な意見だが。

 そして、そうしたテキストベースの哲学をすることが、メタ的な哲学への問いではうまくいかなかった。それが最初の話である。

 それはつまり、哲学とはなにか、と問うことで、哲学の本質のようなものを把握し、それからその本質に従って哲学をしたらよい、というふうにわたしが考えていたことだ。そしてそれが失敗であった。

 それは、哲学をする前に、哲学をするとはどういうことかを考えることだが、それは哲学をしながら考えられなくてはならない。しかしわたしは、具体的に哲学をすることなく、哲学をすることなく、理論だけで世界を考えようとした。このような理論偏重がなぜ、そもそも失敗するのか、言い換えれば理論はなぜ失敗することがあるのか、と問うことがわたしの今の関心である。不正確な考えだが。

 メタ的な哲学とはなにか?それはなぜ失敗するのか?まあわたしにおいて失敗したというだけだが。そしてうまく成功する場合もあるだろうが。それは、具体的に哲学を実践しなかったからだ、といえるだろう。しかし哲学の実践ができるなら、すでに理論は不要ではないか?哲学とはなにかがわからないのに、わたしたちは哲学をしている、哲学を実践している、それが不思議でたまらない。