Adoとブローティガン

 とりあえずどんどん書くことがよいと思うことにした。わたしは、散文が苦手。散文は窮屈なものに見える。それは詩みたいに、意味不明な言葉が入らない。もちろん、わたしの主観なのだけれど。しかし、わたしにとってはそうではない。つまりわたしが散文を書こうとすると、とても苦しい。なぜ、と分析することは、とてもできない。分析は永遠にできる。答えは見つからない。あ、ホタルがいる。いや、いない。ホタルなんかはもう季節じゃない。でも、こういうことをふっと書きたくなる。まあ、いちいち目くじらをたてても仕方がない。見る前に飛べということなのだろう。飛べは跳べかな?まあいいや。とりあえずどんどん書いてこう。そしてそれを続けよう。焦りすぎてはならない。

 焦る必要はない。多分、ストーリーにこだわりすぎている。統一的ななにか。しかし、散文はだらだらして、要約できないことを語るのだろう?とわたしは根拠もなく思うのだが。Adoの新時代のライブ映像を見たとき、なんとも嫌な感じだった。なにか嫌な感じがした。まあそれは、ふりふり踊っているのだけど、なんだかくねくねしていて、なんだか嫌な感じだった。別にそんなに好きなわけではなく、好きだから嫌いになるわけだから、なんでかなと思うと、Adoは歌がうまいからかなと思った。でも、みんな抑揚とか声色の変調がいいというけれど、コメント欄で、でもまあジャズのうまいやつみたいな綺麗さはなく、イギリスの気候みたいに、はしたなく変わってるだけだ。

 なんで、こんなことを書いたのか、わたしにもわからない。Adoの曲はたまに聞くし、外で有線とかで流れてるといいなと思うけれど、家で一人で聞くといつも途中で切ったり飛ばしたりする。完成度は高いけれど、もっとそんな決まりきった定型みたいな歌い方はやめてほしいとか思う。しかしそんなことを思ってどうするのか?とは思う。まあしかし、ファンなんえそんなもんだろう…。

 昨日からわたしはコーヒーを断っている。けっこうすごいことだ。ブローティガンの小説を読んだ。とても面白い。小説は詩や哲学に比べて即座の快楽はなく、ゆっくりと言葉や描写を重ねて、ある時ふっと世界が立ち上がる、という構造がある。詩に比べて言葉のインパクトはないし、哲学に比べて思想が高度なわけでもない。しかし、時間をかけて世界が立ち上がるときには、弱々しかった思想や言葉がなんともいえない暖かさをもって、わたしたちにやってくる。それをブローティガンの小説は思い出させてくれた。よいことだ。

 まあ、今書くことはこれくらいだ。