カフカのアメリカは素晴らしい

 けっこう最近は本を読めてる。哲学書が多い。けれど、前から読みたいと思っていてしかしうまく読めなかった小説が読めるようになってきた。

 それは嬉しい。毎日コツコツ読んでいたおかげだと思う。昨日カフカアメリカを読み終わった。アメリカ、というのは、城と審判と一緒に、カフカの長編三部作をなしている。

 カフカの小説は、というかアメリカのことを念頭に置くけれども、なにが起こるのか先がどきどきする。それは、普通のエンタメ小説とかと違う。普通のエンタメ小説、というのも、実際に何を示すのか曖昧な概念だ。わたしがここで漠然とイメージしてるのは、だから普通のエンタメ小説などといわずその内容をいえばよかったのだが、事件が起こって先がどうなるか気になるというものだ。

 まだうまくいえていない。たとえば、敵を倒す、ラスボスを倒す、あるいは謎を解く。そういう目的に向かって主人公たちが、様々な難題を解く、という類の小説のことを考える。

 そこでは目的が決まっていて、話の流れがわかる。たしかに、敵を倒すまでにいろいろな出来事が起きるし色んな人に出会うだろう。しかし、作品の枠は堅固だ。敵を倒すことに向かっている、という話の軸はしっかりしている。その軸によって、わたしはその作品はどんなの?と聞かれたときに「主人公が頑張って敵を倒す小説だ」ということができる。

 でもカフカアメリカの場合、目的がよくわからない。主人公の目的がよくわからない。アメリカに流れ着いた十六歳の少年が、職を探そうとする。しかし、職探しのために彼は集中できない。それよりも、放浪人にひどい目にあわされたり、拉致されたりする。もちろん、普通の小説でも、それはよくある目的への障害として、そういうことはある。しかしアメリカの場合、その出来事が主人公を惑わすというか、なんだかぶつ切れの出来事で、そういう目的なんかの意識がぜんぜんなくなる。主人公は職を探そうとしているが、その目的に沿って障害や目的の達成といった理解に還元できないことが、あまりにも多く起こっている。

 作品の枠がわからないというか、たやすく概念化できないものを、ぽんと渡されてるような気がする。なかなか解釈できない。もちろんそういうものについての分析もするべきなのだが。しかし、作品の枠とは、なんなのだろう。作品が、こういう作品だね、と予測できたり把握できない。人間は基本的に世界のものをいろいろ大まかにでもわかってるから、生きていけるのだが、カフカアメリカは、そして他の小説も、理解できない生のものをそのまま口に押し込まれたようになってしまう。わたしはうまくそれを消化できない。作品の枠を、作ろうとしていない。それは多分、強引に理解すると、カフカ自身が、目的もない様々な出来事を、そのまま、主人公という焦点に紐づけするのではなく、もっと広大な技量によって、様々な出来事を関係させたりさせないながらも共存させているのがすごいのだと思う。

 因果関係にそれほど明瞭に回収できないことがある。隣の家の人がいま昼寝していることは、わたしとそこまで関係ない。しかし、世界とは、わたしと関係ないものがわたしの隣にあるということだとわたしは考えている。世界には、わたしとほとんど関係ない、他人がわたしと同じ世界にいる、という不思議なことがある点に、その世界性があると思う。わたし中心の、わたしの人生のような出来事では、掬いきれないことが、わたしの横なんかで起きている。ほとんど直観というか経験でいっているが、一応これはわたしのなかに、分析できないほど事実としてある。それで論理的正当性があるわけではないし、もっと噛み砕かなくてはならない。しかし、わたしはそう思う。

 そうした隣の他人や要素を、世界のなかに書き込めることが、つまりわたしと関係をもたず、とりあえずわたしの因果連鎖とそこまでの関係をもたないものを書き込めることが、カフカの素晴らしさだといいたい。彼は、世界を因果的に繋げなくても、実際はあるのかもしれないが、それはここではあまり関係なく、むしろ因果連鎖というガジェットをそこまで使わなくても、世界の出来事を語れる、あるカオスともいえるこの日常的な世界を語れることに、カフカの素晴らしさがある。

 とにかく、省察めいたことを書いたが、カフカは素晴らしいし、カフカアメリカは面白い。わたしはこの機会に城や読みかけの審判を読んでもいいし、なんなら全集も読もうかと思っている。ただカフカは読むのが大変である。時間もかかる。わたしは、哲学書のほうが得意なので、小説を読むのは苦手だ。まあ、筋が見えにくい小説ばかりを読んでるからだとは思うけれど。しかし、構造が見えすぎる小説は、単なるテーマや主張の具体化でしかなく、わざわざその小説自体を読む必要性を感じられない。