市田良彦

 ドラゴンスレイヤー。そんなのが頭のなかで響いた。なにかのライトノベルだっけ。ドラゴンスレイヤーズだっけ。わかんねえ。でもよくわかんないが、まあいい。ドラゴンスレイヤー、検索するのも面倒くさい。異世界系だろうか。

 調べたらゲームだった。ビデオゲームファミコンとかそういうの。とても古い。なんでこんなの知ってるんだろう。ぜんぜん心当たりがない。心当たりがないのに、知っている。そういう幽霊みたいな記憶がある。まあなにもかも記憶してることの由来を知っているわけではないんだろうけど。でもそうはいっても、やはり、こんなことを何故知ってるんだろう。考えられるのは、昔見てたゲームについてのテレビ番組で見たかもしれないということ。そこでは、古いファミコンとかのゲームの紹介もしていた。それかYoutubeのゲーム紹介動画か。しかし後者は全然見ていない。うちにはファミコンがない。ていうかもう一度調べたらドラゴンスレイヤーは、パソコン用でセガサターンとかゲームボーイに移植されたらしい。ぜぜん話の前提が違ってくる。まあいいや。

 それより、それよりなんだろう。ドラゴンスレイヤーから離れたい。スレイヤーズってラノベはあるっけ。あった、調べたらあった。読んでみたい。別にドラゴンスレイヤーはやりたいとは思わない。だからスレイヤーズは読んでみたい。でもこれもかなり古い作品だ。古すぎるくらいだ。2000年とか。今のラノベたちのご先祖。どれくらい影響関係があるかは知らないけど。そんなものを読んでもまあ娯楽にすぎない。でも本当はガルシア・マルケスとかを読んでたいけど、ラノベにもうまく入門したい感じはある。ずっと読んでると入門できるかもしれない。コーヒーを飲みたい。でも夜になると眠れなくなるからやめておく。わたしはとにかく書きたいんだと思う。なんでもいいから、どうでもいいことを。ライトノベルはそのうち書こうと思ってる。商業性は皆無だろうけど。しかし個性は出していったほうがいいらしい。いいらしいというが、というかそれは売れるためじゃねえ。どうせ売れる確率なんかないんだから、自分のためにやったらいい、という思考に最近はなっている。

 アルチュセール市田さんのある連結の哲学も読んでる。市田さんの本はクソ難しい。マルチチュードの革命論も、むずくてなげてる。でも彼の書くアルチュセールはむっちゃ魅力的。うれしいね。こんな面白い哲学研究をしてくれる人がいるのは。だから、まあ読もうと思うし、アルチュセールも読もうと思う。僕は一体なにをしたいのか?それは時と場合によるとしかいいようがない。僕が本当にしたいことなんかわからない、っていうかそこまで抑圧されてねえ。コーヒー飲んじまった、まあいいや。哲学なのか、文学なのか、とりあえずどうするか。どっちもやりたい気持ちはある。でも小説なのかな。まあ無益な人生でもいいでしょ、とは思う。別に成果がなくても。いまのところ哲学のほうが、やや向いてそう。でもそんなのはどうでもいい。どっちがやりたいだろうな。市田さんのアルチュセールを読むと、哲学者になることはとても魅力的な職業に思える。でも、わたしの実存的な問題は、まさに小説によるものかもしれない。というか、哲学はなんか具体性がない。でもわたしは自然とどんどん抽象的なことばっかいっちまう。どういうことだろう、これは。なぜなんだろう。俺はなにをしたいんだろう、とかいうのは思考の罠だ。詩、哲学、小説。まあ3つある。3つある、どれもまあ職業にはなんない。じゃあ自分にとって一番意味があるものはなんだろう。なんなのだろう。小説だろうか、詩だろうか、哲学だろうか、でも時間を一番かけて読むのは哲学だ。でも哲学は四十歳まで続けられる自信がない。小説や詩なら、それはできるだろう。職業としては、小説家に一番なりたいだろう。しっかし、なにが一番いいんだろうか。全部できりゃ、そりゃいいが、そんなに時間があるわけでは、決してない。というかちゃんとやるなら深めたい。できるところまで。哲学はけっこう先が見えてるし、根本的な不満もある。でも小説は、まだ、いや可能性があるとかでやるわけではない。そんなのは無意味だ。とにかくやるべきことを好き勝手やればいい。しかし、どうなるんだろうか、それが。哲学には、ほとんど絶望している。悲しいくらいに。批評は楽しいのだろうか。わからない。わからない。どうすりゃいいんだろうな。わかんねえ。でも小説家なれますかねえ。わかんねえな。とにかく書くしかないんだけど。詩や小説は、細かい楽しみはある、書いたときの。でも哲学は俯瞰して読み込む感じだ。世界はそんなに理性的か?しかし、これはもう哲学ではないか?こんな疑問が頭に浮かぶなら。詩人、小説家、哲学者。文学を批評する哲学者?でもそうだな、哲学を本業でやるべきだろう、死ぬまで自分のために。