意味を見出す

 幸福とはなんなのか、わたしはそんなに知りはしないさ、という女の子がいた。その女の子はクラスのなかでいじめられていた。そして次の年になるとその子が、いじめっ子になっていた。わたしはずっとそんな彼女を見ていたことがある。

 なにが幸福を意味するのかはわからない、とわたしは思う。思うのでそうしている。なにをしている。なにをしているのだろう。わたしは幸福の意味がわからないので、幸福へと進もうとしている。わたしはなにか、見るべきことがたくさんある、この世のなかを見たいと思う、と母親にいったことがあるが、母親は

「そんなもの、ないさ」というのだ。いうからわたしは、それはなんだか残酷だなと思う。残酷だからわたしはさっさと死ぬことだってしてみたわけさ。もちろん観念のなかでだけど。しかし、いつわたしは死ぬんだろうか、と考えることは、幸福の問題にぴったりと張り付いている。わたしはいつも焦ってしまうのさ。とかなんとかわたしはいっちゃう。そうしてわたしはいろいろなことを誤魔化すつもりだ。

 わたしは誤魔化すということが好きだ。お釣りや時間や言葉を誤魔化す。金はないし時間はないし言葉もない。だからあるように見せかける。それが誤魔化すということだろう。わたしは刃物を持つ一匹の動物に、そのうちなり、あらゆるところを駆け巡るかのように、たとえばわたしの家から半径5メートルを駆け巡って警察の御用になるかもしれん。まったく面白くもない空想だ。しかし、わたしはそうしたことをしても、おかしくはないなと、わたしはそこまで自分の正気を信じることはできない。刃物はそんなに切れない。梨を昨日切ったが、うまく切ることができなかった。人間ならば、勇気が出るのだろうか。人間ならば、ああわたしは意味はともかくいいたい言葉はいっている、と嘆息するようなものたちを、切り殺すことに、なんの躊躇もないだろう。

 アウシュビッツについてわたしは、平和学習にでも行こうかと思う。なぜ行こうと思うのかはわかりゃしない。しかし平和記念資料館は行ったことがない。だからまずそっちへ行くべきかもしれない。しかしアウシュビッツも見ておかなくてはならない。パウルツェランを読んでいた。それはとても悲しいことだった。だからアウシュビッツに行くのだろうか。アウシュビッツはそんなところなのだろうか。アウシュビッツは行きたくて行くようなところなのか。もっと実は、わけがわからないのに、わたしたちが歩いていればふと行ってしまったようなところが、アウシュビッツなのではないだろうか。アウシュビッツにわたしは来年行こうと思う。