幸福とか

 書くことをしていた。疲れた。わたしはかなり書いている。書くことをしている。なぜ書くかはわからない。仕方ない。仕方ないと思う。書きたいことは、書かないと出てこない。書くというか、言葉がないと、書くことができない。というか考えることができない。誰かと話したり、読んだり、書くことで、なにか頭のなかだけでは、なにも思いつかないのが、思いつくことができるかもしれない。そう思うが、どうだろうか。花がある。それはどの庭先にもある。庭先でわたしは体操をする。体操はとても楽しい、と思う。わたしは過去七仏という概念を中学2年の秋に知った。そんなものがあるのか。とわたしは思った。

 わたしは父に聞こうとした。しかし父は出ていた。いつもはすぐ帰るのだが、帰って来ない。帰って来ないから、わたしはなんともいえず涙を流した。わたしは仏というのを知らない。見たことがない。仏像ではあるが。仏像ではあるが。仏像は仏の表象だ、小難しくいえば。死ぬことはできない。どういうことだ。わからない。わたしは書き出してからようやく頭が連想的に働き出す。錯乱しているかもしれない。スロースターターなのだ。

 ということにしておこう。わたしは父に受験勉強のときスロースターターといったかもしれない。その晩父は泣いていたわたしを見てどこかへ行った。それはわたしはよく覚えているのだが、歩いて空へと登っていた。マホメットか。彼は天使に連れられたという。エルサレムエルサレムに行くことは多分一生ないだろう。

 わたしは父が降りてきたのを見て翌朝聞いた。わたしは過去七仏のことも、聞きたかったのだ。わたしは聞いた。すると父は「わたしはぐっすり眠っていたさ」というのだ。わたしはではあれは父ではなかったのだなと思った。それ以来父への不信が始まった。ある神話とはいったいなんなのだろう。それは理解力の不足なのだろうか。しかしわたしにとっては、過去とはこう語ることしかできないものだ。わたしはモスクへも行ったことがある。そこはカメラを禁止されていた。しかし現地人はみな平気な顔さ。まったく嘆かわしい。いやだいやだ。死んでしまいたい。

 わたしは急激に死へ縮小し爆発し夜空を駆け抜ける。そんなことをしたことがあった。わたしは言葉なんかはなくていいと思った。しかしそれは間違いだった。間違いだったのだ。だからこうして今もわたしは喋っている、言葉を使って。バタイユなんかよんだせいか。

 バタイユについては横田という立命館の学者の、脱ぎ去りの思考というのがよい。かなりクリアだ。しかし貧しいと思う。いやそれはクリアさの代償であり、単に内容がないのではなく、極端なまでに、というほどではないが、きちんと抽象化された結果であり、わたしはあのようには書けないだろう。嘆かわしいことだ。わたしの力のなさだ。ただ疑問としては、概念的把握を解除し事物そのものの未知性に触れるとあるが、概念的把握がすぐにそこへ襲ってくる。ではその概念的把握は、なんらかの変容を起こすのだろうか。概念的把握以前の事物が、モノ自体のようなものであり、本当に不可知なら、概念的把握はただ流産しその都度自己の不可能性を知るだけであり、非知そのものは知られないのだろうか。わたしは批判をしたいと思ったが、むしろ後者の認識の内破という視点が、わたしが横田がしていると思ったその視点が、面白いと思った。単に知が更新されるのではなく、ただ非知は非知として、しかし横田はカントの超越への独断論としてバタイユを示す可能性を示していたからやはり概念的把握は非知の徐々に取り込むのだろうか、まあしかしそんなことはどうでもよく、それとしてありただ流産する。どこでかはわからない。認識が十分に理性的に働かされたところで、悟性が内破し捉えきれぬものが出てくる、そしてしかしそれは捕まえることができない。つねに知られないものが知られないものとしてつねに遠くにあること。それは神秘というもの、というよりも、知にどうしても限界があり、そしてその限界がアクシデント的に出てきてしまうという、不可思議をいっていないか。なぜ知は知り得ないものを知りうるのか。つまり、限界を知りうるのか。その起源としての、内的体験は、明らかに、不思議である。

 もう少し書こう。わたしは一本松を見に行った。あの東北のだ。わたしは嫌な気分になった。詳しくは書かない。しかしわたしと同じような理由から同じように思うものはいるだろう。わたしは東北を助けることなどできない、とそのとき、自然と受容していた。神であるならば話は簡単である。神であるならば、ただ治せばいい。しかし不可能性がまず突きつけられる。人間にはすべてを治すことなどできない。だから、不可能なのだ、被害者をすべて救済することなど。わたしの個人的な課題でいえば、わたしはしかし、そうした不可能性のなかでもなにかをするべきだと思うし、またそう思うべきだと思う。

 不可能性がつねにある。完全な解はない。すべてを善にすることはできない。悪がこの世にはある。しかしそこにおいて、無意味かもしれなくても、することを肯定したい。カミュ的な命題だ。生きることは無意味なのに、この世の悪を消すことができないのに、なにかをしなくてはならないということ。この事実に疲弊しないまま、前へ進まなくてはならないのだろう。