文章の意図

 とりあえず眠くなる。眠くて眠くて仕方がない。仕方がないので嫌になる。なにを書くべきか、よくわからん。わたしはブログをしたいみたいで、しかしなにか有益なことを語れるわけでもなく、日記みたいにどやどや書くだけだ。

 日記というとわたしは日記をつけ始めた。別にここに乗せるわけではない。載せるわけではない。極私的なものでそんなに大したことが書いてるわけではない。それに恥ずかしい。大したことを書いてるわけではないけれど、しかしやはり恥ずかしい。

 わたしは昔歩き旅をしていた。富山だったと思う。田園風景のなかを蔵がいくつもあった。わたしはそこに入ってみたいなと感じた。そこに入っても別になにも起きないだろうに、そういう好奇心をもった。入ってるのはどうせ大したものではない、となぜわかるのだろうか。しかしわたしは今もそう思っている。早く家に帰りたい。家に帰りたいとわたしは思う。今いるところが家だとしてもそう思う。

 ジジェクは、哲学者を存在しないものの喪失と定義していた。存在しない理想をあたかも喪失したかのように、振る舞うもののこと。哲学が理念をプラトン的な意味で語るなら、そうであるだろう。そうした理念のもとにあるだろう。しかしドゥルーズのような、理念よりも現実に目を向ける哲学者はどうなるのだろう。

 わたしは勝手気ままに書く。それでいいようだ。わたしは小手先のテクニックで書きすぎていた。それを反省しなくてはならない。眠いなと思う。まあまさに眠いのだ。なぜ何度も人は眠くなるのだろうか。それがまったくよくわからぬ。わからぬから死にたくなる。ある命題や指令は、世界を統御できない。つまり理論はつねに裏切られる。しかし理論が不要なわけではない。わたしが恐れるのは文章が様々な決まりを離れることだ。そしてさらに恐れるのは、様々な決まりに執着してしまう、合わせてしまう自分がいることだ。そんなことをしても意味はなかろう。普通に書いて壊れてしまうならばそれまでのことだ。

 わたしはなにを書きたいのだろう。これがよくわからぬことだ。わからない。わからないので書くのだろう。そうだろう、わたしはなにを書きたいのか欲望していない、自覚していない。欲望を自覚していない。だから書いて書いて、そこにおいて対象化することで、まさにヘーゲル的に、対象のなかに自己を発見するのだろう。わたしの意図はつねに隠されている。書ききることで、なしたあとで、事後的に発見される。それはどのような存在者なのだろうか。

 書くことがなくなるということは多分ない。書くことがそもそもないのだから。わたしはとにかく書くだろう。どんな文章でもとにかく書くだろう、そうしよう。そうしよう。しかし人を喜ばせる文章はまた別だろう。エンターテイメントだ。とわたしは思うが、どうしたことか。ひどく内省的になってしまう。はたはた困ったことだ。しかしコミュニケーションのためになにかを語ったり、わかりやすくするのは嫌だが、しかしそれが手近なコミュニケーションの手段としてよいのだろう。そういうものも書ければいいが。やっぱりこの文章のなかに意図はあるのか見つけにくい。結局草原の嵐のようにことが終わっただけだ。